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究極のコミュニケーションの物語
映画「トーク・トゥ・ハー」
2003年10月16日 南信州新聞 掲載
昏睡状態の美貌のバレリーナ、アリシアを献身的に看護する男性看護師ベニグノ。ストーカー行為を行うほど恋焦がれた女性を看護する幸福の中にベニグノはいる。 そして昏睡状態の女闘牛士リディアと、その恋人のマルコの四人を軸に物語は進んでゆく。
昏睡状態のアリシアにベニグノは、あたかも全てをアリシアが理解できると思っているかのようにひたすら語りかける。
ベニグノがアリシアに人格のある人間として接するのに対し、マルコはリディアを植物人間としか見ることができず、触れられず、語りかけることも出来ずにいる。
ベニグノはリディアに語りかけるようにマルコに即す。
アリシアのような慢性意識障害の患者は医学的には他者と交流できないとものとされている。しかし看護の分野では、そんな患者さんと交流する看護師の話がある。
患者と丁寧に接することで「視線が絡み」「タイミングが合う」ことや、患者さんが看護師を目で追うようになったりすることがあるのだという。
心理学では「コーマワーク」という、昏睡状態で言葉によるコミュニケーションが不可能な人達に対し微細な表情の変化、身体の硬直、うめき声など、一見意味のない非言語的シグナルを丁寧に辿り、アクセスする方法があると聞く。
「奇跡を信じない人には奇跡が起こっても判らない」とベニグノは諭す。科学的、客観的には見えにくいことが、暖かな共感の存在する場に現れる。
NHKスペシャル「奇跡の詩人」で紹介された、重度の障害を持った日木流奈君という少年がいる。この少年は文字盤上を母に手を添えてもらいコミュニケーションを取る。 13歳の少年とはとても思えない内容が絶賛された。しかし「やらせ」を疑う人達から批判が続出しNHKは検証の番組を放送した。これも完全に疑問の払拭にはいたっていないとの批判はあるが、それは当たり前だろう。 思想家の森崎茂氏も言っているが「科学は要素還元主義をベースに原因と結果が相関する限られた領域だけで妥当性をもつだけ」で、流奈君とお母さんとの絶妙なコミュニケーションの科学的解明は困難なのだから。
携帯電話、メールで絶え間なく連絡を取り合っていても交流しているとはかぎらない。コミュニケーション不全の現代では、身体を伴ったコミュニケーションがより大切だろう。 同じ場で、同じ時間を共有し、言葉とは矛盾する表情の変化や指先のかすかな動きまで感ずることのできる対話が大切なものを育んでいく。 ベニグノの一方的とも思える語りかけは愛を持った共感に満ちていることでアリシアとの交流を生み出しているのだろう。そこに奇跡は起こる。
ベニグノがアリシアの好きだったものを語り聞かせるために見るピナ・バウシュのダンスの舞台、無声映画のほほえましいエロティシズム。 チェロの響と共に心に沁むカエターノ・ヴェゾーロの「ククルクク・パロマ」。戦いに赴く衣装を着けるリデイア、闘牛場での緊迫のリディア。清拭されるアリシアのヌードの美しさ。 そしてベニグノの究極の介護。難しいことを考えずにこれらを楽しむだけで充分満足な映画だ。
「私が寝たきりになったらあんなふうに介護してくれる?」妻は見終わるなり、私の愛を確かめるかのように聞いてきた。誰でもあれほどの介護をしてもらえるなら、寝たきりになっても良いと思うだろう。 「してやるしてやる」私は答えた。そして飯田の街を、本当に久しぶりに腕を組んで歩いた。