はじめに

 病気は医療によって克服してきたと固く信じられていて、医療制度の充実こそが至上命題として掲げられてきた。現在、感染症は減少したが成人病やアレルギー疾患は増加している。 この疾病構造の変化をもたらしたものは医療なのであろうか。医療の病いを克服する力はどれほどのものであろうか、医療制度の充実は人類を健康へと導けるのであろうか。 医療を文化の側面からながめると別の姿が見えてくるのである。医療人類学、民俗学から医療を検証してみようと思う。

医療周辺の民俗

 現代人は合理的、科学的な考えの元に行動していると信じられているがそうであろうか。例えば「病気見舞い」の習慣はシャーマニズムの儀礼と奇妙なほど似ているという。 シャーマニズムの治療は共同体の全体的行事であり、治療の儀式には患者の属する共同体全員が集まる。共同体のメンバーが自分の健康に気をかけてくれていると感じることで著しく元気づけられるのである。 現代の日本においてもシャーマニズムの治療においても、ともに患者に関わりのある人達が病気回復のために何らかの寄与をするのである。また、病気見舞いの贈り物は象徴的意味が重要な役割を担っているという。 病人への贈り物は新鮮な食物が好まれる。それは自然の新鮮な活力が健康な送り主を経て病人の体に注入され病人が元気づくと考えられているからで、卵などが重宝がられたのである。 現在ではマスクメロンが人気が高いが、それは贅沢品であることと「マレビト」との関連性をみてとることができるのだという。病気見舞いをもらえばお返しをしなくてはならない。 見舞い品が健康な身体の持ち主から病人に活力を移し与えるという意味を持っているから、お返しは病人が回復してからでないとしてはならないと信じられてる。 さもないと病気が健康な見舞い客に移ってしまうかもしれないという文化的意味を持っているからである。医療周辺の民俗を見つめるといわゆる未開人の行動と差の無いことが判るのだという。1)

日本人の清潔観

 日本人は清潔好きだといわれる1番の理由に風呂好きを挙げる。しかし、繰り返し何人もの身体を沈めたバスタブの湯が清潔であろうはずはなくシャワーの方が清潔であるのは言うまでもない。 風呂は清潔の観念とは違う清浄の観念と結びついているのだという。アメリカ人はシャワーを外出前や必要に応じて浴びるが、日本人は帰宅後風呂に入り身を清めて夜を迎えるのだという。 日本人の清潔観は医学的な清潔観念とは違うのである。病気になったとき入浴は制限され、入浴の可否が病いの回復の間接的な指標として用いられる。入浴の再会許可は病気が癒えたことの象徴的表現となる。 患者は風呂につかり病いの状態から清められ再び健康な状態に戻るのだという。1)箸の使い方にも清浄観が働く。 とり箸が無いときに箸をひっくり返して用いるが、なぜ手に触れた汚い部分を使うのか、また手洗い後に同じハンケチを使って繰り返し手を拭くのは清潔ではないと外国人の新聞の投書にあった。 指摘されて初めて清潔観念の違いに気がつくのである。
 日本人は自己の領域は清潔であり、意識の中であらかじめ不潔であると仕切った所から病気はもれ出てくると考えているという。 日本人の志向の中にエイズは日本にとって本来、異質であり外からもたらされるものだとの見方があるという。 在日外国人女性のエイズ感染者の急増は風俗営業経営者が積極的に検査を受けさせ潜在的な感染者を表に出した結果なのだが、この結果を読み誤れば排除の論理が働きかねないのだという。6)

医療関係者の清潔観

 では医療における清潔観はどうであろう。最近は余り見かけなくなったが、診察室に置かれたクレゾールを満たした洗面器はいかにも医療における清潔観の象徴である。 しかし、あれほど不潔な物はない、繰り返しの使用は感染源そのものなのである。最近話題のMRSA(院内感染)の予防法を著した本にも厳に慎むべきだと述べられている。 クレゾールの洗面器は一人の診察を終え次の患者の診察に移る区切りの儀式の道具として存在するのである。

病気は文化

 「肩こり」「冷え性」などは日本人特有であり翻訳困難な状態にあるという。日本においてのみ存在する病いなのである。医学専門書に載っている疾患にも日本特有の疾患はある。2) 「更年期障害」という診断名はアメリカでいう「閉経期の障害」の概念とは多少違っていて、血の道症に近いというし「自律神経失調症」は日本独自の使われ方の疾患名であるという。 つまりこれらの病いはまさに日本的な文化なのである。3)

近代医学は科学的客観的か

 では、日本の医学が特別にそうなのかというとそうではない。近代医学は科学的客観的ではないという。 疾患を正常からの逸脱と定義しているが正常の概念がそもそもあいまいであり、質的な価値基準が入っている。 特異的病因論の想定に立っているが有効性が保証されていない。属名としての疾患の普遍性、疾患の分類学が可能とする想定は誤りである。 生物医学が科学的に客観性に中立であるとの保証は試験管内の実験ならいざしらず出来ない。などの理由からである。西洋近代医学を相対化した視点で捉える必要がある。4)

医療化の問題点

 イワン・イリイチは医原病を臨床的、社会的、文化的と分類した。臨床的医原病は医療過誤などを指す。社会的医原病は全てを医療化していくことを指す。 例えば、不登校の子に登校拒否症の名を冠して医療の対象にする、学校が病んでいるかもしれないのにである。医療はこうして増殖するという。 文化的医原病は病い、痛みに負の価値を与え、医療技術でそれらを抑え込むことに専心する。それらの訴える本来的なものへの気づきをじゃまするという。 病いは生活、行動、社会の矛盾を背負って噴出するがその訴えに気がつかないようにしているのが今の医療なのだというのだ。

バイオヒューマン・パラダイム

 結核の原因は結核菌だと決めつけているが別の見方がある。原因は貧困、栄養不良だとする見方である。 結核菌が無くなれば確かに結核は無くなるのであろうが、環境(生活、栄養、労働など)などの改善でも結核は無くなるのである。 結核菌を原因とする考え方を生物医学パラダイムといい、環境などを原因とする考え方を行動科学パラダイムという。 医学史上で見ると産業革命期に蔓延した結核の減少は抗生物質などの医療によるものではなく、まさに環境の改善に外ならなかったのである。 現代の発展途上国での感染症の蔓延は生物医学パラダイムの限界を示している。 また、エイズは文化的拘束的な病いであり、文化や階層、人種といった社会的構造物が形成する「運河」を通して広がるから、「運河」の節目に沿って対策を立てればコントロールは可能だと社会学者の間では一般的になりつつあるという。6) 現代の病いの代表であるアレルギー疾患、癌等の原因が複合しているものの克服は行動科学パラダイムを重視したものでなければなない。 2つのパラダイムを統合しバイオヒューマン・パラダイムの構築が必要だと云われる。5)

民俗の再生

 癌のイメージ療法というのがあるそうだ。癌のかたまりを溶かしてゆくイメージによって癌治療に効果をあげているという。先人達は協同して共通のイメージで病いと闘ってきた。 それが現在から見てどんなに不合理だろうと、現在のイメージ療法が個で闘うのに対し、協同で病いに立ち向かう方がどんなにか心強いであろうか。
 世をあげて高齢者福祉問題を取り上げる。ある自治体では一人暮らしのお年寄りに救急ペンダントとをつけてもらうのだと云う。別なところでは1日に何回か消防署につながるマットを踏むようになっている。 これが現代の高齢者福祉なのだ。ひと昔前はお隣の人がいつも覗いて声を掛け合っていた。どちらが幸せなのか云うまでもない。失われた民俗の利点をどう再生したら良いのだろうか。

おわりに

 近代医療は科学的客観的で文化的に中立であると信じられているが、ことほどさように文化的である。医療人類学、民俗学は現在の医療により広い見方を提示する。

参考文献
1)「日本人の病気観」大貫恵美子著 岩波書店
2)「医療人類学とは何か」メディカル・ヒューマニティ14 蒼きゅう社P6
3)「信頼の医療を築くために」 P72
4)「術後集」中村雄二郎著 P22
5)「医療の人類学」海鳴社 P]]U
6)「エイズと現代考・中」朝日新聞、1993年、9月14日