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外治法(民間医術)−その歴史と方法−
「伊那」(伊那史学会編)1989年6月号 掲載2009年 5月 2日 Web掲載
外治法(体表部刺激療法)とは民間薬(草根木皮)の外用、物理的療法、蛭飼、蜂療法等を含む、体表部に種々の刺激を加える療法の総称である。
種々の外治法を取り上げるにあたり、羅列の繁をさける為、一応の分類を試みた。医学的分類のひきうつしは民俗学的とは言い難いという批判は承知の上であえてこの様な分類をした。
(1)罨法(あんぽう) (2)温石(おんじゃく) (3)ロウ療法
(4)温泉 (5)薬湯 (6)石風呂
(7)スイフクベ(吸角) (8)手技療法 (9)摩擦療法
(10)直接灸 (11)間接灸
(12)メボシ・メガサ(油灸) (13)薬灸*艾柱=艾(もぐさ)を鍼灸一回分ずつちぎったもの
(14)毫針 (15)三稜針(ハバリ) (16)皮膚針
(17)メボシ・メガサ(挫刺法) (18)燔針(はんしん)(火針) (19)灸頭針
(15)ハバリ(三稜針) (20)蛭飼
(21)薬物外用(狭義) (22)発泡療法 (23)吹込療法 (24)滴法 (25)塗法
(20)蛭飼 (26)蜂刺療法
つぎに各々の療法についてその歴史と方法について述べる。
温度刺激(寒冷又は温熱)を治癒の手段として用いる方法。温度的刺激療法といった方が適切かもしれないが、温熱的刺激療法が一般に用いられているのでそれに従った。
皮膚の一部を覆って温熱又は寒冷刺激を加え治療に役立てる方法(注1)温罨法として熱く煮たこんにゃくを当てる、湯でしぼったタオルを当てる等の方法がある。 冷罨法として打ち身等に蛇焼酎で湿布する、馬の肉(さくら)を張る等の方法がある。(注2)
熱した石を布に包み病気の局所に当て暖める方法である。神経痛、冷えっ腹等の時懐中にして体を温める方法である。 この方法に呪術的要素が加わり、特定の種類の石・日時・場所等の指定となり、土用の丑の日とか午の日、何の河原の石、何々神の宮前で焼いた石とかの条件がつくこともある。 又、変法として塩と糖を混ぜたものを熱して布に包み痛むところに当てる方法もある。
ろうそくに火をつけ溶けたロウをしもやけ等の患部にたらす療法である。
一般に鉱泉と区別され、暖めねば入浴に適さない湧泉を鉱泉といい、加熱しなくてもよいものを温泉と称している。 奈良朝から平安朝にかけ、温泉は薬師信仰に連らなるものか、あるいは医薬療病の神である大巳貴・少名彦命を祀って、その霊験をほこっていた。江戸時代初期、後藤良山は浴法・服法を研究した。 幕末から明治にかけてはレクリェーションの意味をもって温泉が親しまれた。(注5)
県内は温泉が多く、そのいわれが多く存在する。小県郡丸子町の鹿教湯はその名の通り鹿に教えられたところと伝えられる。 昔、狩人が芝に鹿が寝ているのを見て行ってみると、そばに温泉がわき出ており、鹿はその湯で足の傷をいやしていた。 下諏訪町の綿の湯は明神様が綿に湯をしめして持ってくる途中、手の間からもれたのが温泉になったとも、八坂刀売命が綿にひたしてきた化粧水が温泉になったともいう。 鹿塩温泉は諏訪大神の祭神建御名方命がこの地で狩をされた時、鹿が好んで飲む水に塩が含まれていることを発見し、鹿塩の名が生まれたという。 又一説には弘法大師が諸国遍歴の際、この地の人々が塩がなく苦しんでいる事を聞き、杖の先で地面を突いたところ塩水が湧き出る様になったという伝承がある。
種々の植物を風呂に入れて入った。その植物のことを「ぬくまり薬」と言うところもある。(注8)
蓬・菖蒲・接骨木の葉・大根の葉を干したもの・ひば・げんのしょうこ・みょうがを入れた湯に入るとよく暖たまるといい、神経痛、子供のおねしょに効くという。 桃の葉を入れた湯は汗カブレに効くという。(注6)
風邪をひいた時背中に塩をぬって湯に入った。湯ばな(草津などで買ってきておく)を入れた湯は特に効きめがあるといい、昼から湯をたてて入る者もあった。 十二月の末、正月の餅つきをする時、餅米を洗った白水で風呂をたてて入るとよく暖まるし、皮膚が滑らかになる。婦人は頭髪を洗うと光沢がよくなるといった。 端午の節句に菖蒲湯に入ると体が丈夫になるという。(注9)
石焼きの原理を応用した蒸気風呂である。主に瀬戸内海沿岸南部に分布している。(注10)
石湯というものが「民俗学辞典」(注11)と「民俗資料調査整理の実務」(注12)に書かれていて、国会図書館へも照会したが、どのようなものか判らなかった。
種々の機械的刺激を与える療法である。
スイフクベには二法ある。乾角法(カラスイフクベ)と湿角法である。 乾角法はコップ・茶碗・竹筒に、小片の紙に火をつけて入れたり、アルコールを少量入れ火をつけ、陰圧にして皮膚上に吸着する方法であり、 湿角法はハバリ(三稜針)で皮膚に傷をつけスイフクベを吸着させ瀉血する方法である。8.瀉血の項で述べる。 スイフクベは「火罐」「抜罐」「吸角」「吸い玉」「真空浄血療法」とも呼ばれる。「吸角」と呼ぶのは動物の角を用いてコップと同様に皮膚上に吸着したり、 先端に穴をあけ底部を皮膚に当て吸い出したりしたからである。(注13・注14・注15・注16・注17・注18)
導引・按は素間にも記載のある漢方医学の流れをくむ古い方法である。(注19) 按摩・マッサージ・指圧は現在では、専門学校で教育を受け免許を取得して行う職業となっている。(注20) カイロフラクスティック・スポンディロテラピー・オスラオパシー・推掌等、外国から最近入ってきた療法も行われている。(注22・注23) 手のひら療法・整体法・操体法・種々の健康法と称する手技療法がある。(注3・注24・注25・注26)
乾布摩擦・冷水摩擦・タワシ摩擦はよく行われている。後述の(16)皮膚針もこの範疇に入る。 中国では刮(グアシャ)療法といい、銅銭等で皮膚をこする療法がある。
モグサを燃焼させ体表より温熱的刺激を生体に加える療法。 モグサの原料は蓬である。モグサの原料になる蓬は二種類あり、オオヨモギ(Artemisia motana Pamp)と普通のヨモギ(A.princeps Pamp)がある。オオヨモギは山蓬ともいわれる。 天正四年、信長がポルトガル人「イルマン・バテレン」に命じ江州伊吹山に薬草を移植させた中に山蓬があったと言われているが、織田隆三氏によれば山蓬は外来種ではないという。 (注28・注29)
直接灸は有痕灸ともいい、艾柱(がいちゅう)を体表の一定部位に固定し燃焼して火傷を起こす方法である。(注30・注31) 艾柱とはモグサを円錐状にして灸をする状態にしたものである。直接灸には透熱灸・焦灼灸・打膿灸がある。 透熱灸は普通「灸」と云われるもので、現在一般に治療に用いられる灸法である。日本に透熱灸が登場し、一般の内科系疾患に応用されるようになったのは、 富士川游によれば徳川時代の後藤良山以来といわれるが、原志免太郎は日蓮聖人の御遺文を考証して、灸法が鎌倉時代すでに内科小児科系の治療に応用されていた事実を明らかにした。 焦灼灸は施灸部を焦灼破壊する目的で施灸する灸で、疣(イボ)・疔(チョウ)・癰(ヨウ)・皮下蜂巣織炎、鼠・蛇・毒虫の咬傷部を焦灼するのに用いる。 灸法が日本に伝えられてから、平安・鎌倉・室町時代までは、灸は主に外科的応用としての焦灼灸であった。 打膿灸は灸を据えて灸痕の化膿を促す腐蝕剤・発泡膏・相撲膏・赤マン等をはり、排膿させたり、漿液(しょうえき)を出させる目的でする灸である。 ヨコネガエシ(横根返し)・打ち抜きの灸・吸出し灸・弘法灸等も打膿灸である。 打膿灸は後藤良山の灸法の内「開表」(後藤良山五極灸)にはじまるという説が有力である。
間接灸は原則として灸痕を残さない灸法であり、無痕灸・温灸ともいう。紙、にんにく、蒜(ニラ)、生姜の切片又は擢(す)り潰し泥状にしたもの、味噌、塩等を皮膚にのせ、 この上で艾(もぐさ)を燃やす方法や、器械灸といって温灸器等を用いる方法、棒灸という方法等がある。 紙を用いる間接灸に「水灸」という方法がある。水で濡らした日本紙を十数枚重ね皮膚上に置きその上に施灸する方法をいうが、「水灸」には薬灸の一法にもそう呼ぶ方法がある。 (25)塗法で述べる。 直接灸の一つとしてチリゲヤイトといって、子供の身柱というツボに灸をする方法があり、これを行うと子供が丈夫に育つという。(注33) 間接灸の一つとしてほうろく灸・皿灸といって土用の丑の日に素焼の土なべをさかさにして頭の上にのせて灸をする方法を行う寺がある。〔上田〕(注34)
目のつかれ・しょぼつき、視力低下や肩こり等に行われる療法である。一般に眼疾患のフリクテンをメボシ、メガサと呼んでいたらしく、その治療法も又そう呼ばれた。 この療法には二法あり、一法は油灸、他法は挫刺法(特殊針法)である。(注35・注36)
柳田国男の「モノモライの話」にメボシの事が詳しくかかれている。長くなるが引用する。
農家では田植えの過激な労働の後に、よく色々の眼の病にかゝるものがある。 其の一つに東北でメボシというのは、白眼と黒眼の境に小さな星が二つも三つも出ることで、岡山地方でマロウトというのも同じものらしい。 福島県の白河付近で、自分の知っている某君の母、此のメボシを抜く術に通じ、田植え後には近村から来てそれを頼む男女が無数である。 全く過労のために起こる故障であるらしい。其の術というのを内々尋ねて見ると、眼星のある方の肩を脱がせて見ると肌に粟粒の如きものが必ず出来ており、それを引き抜けば白い絲様の線がついてくる。 その絲を剪ると星も従って無くなるので、此術をメボシヌキと謂うのだそうである。私は此れを奇として人々に語って見たところ、中には斯ういうことをいう人もあった。 眼星と粟粒ようのものとは関係があろうと思われない。ただそういうものは誰にでも折々出来、引けば白い絲がついて来ることも有り得る。 この両者は相牽連すると信じている者が、一方が切れたから此方も無くなると思って居たことが平癒の力であったろうと。それは自分たちの理解の外であるが、とにかく結果はその通りであった。 岡山地方のマロウドも療法が是と稍似ていて、普通背中に一文銭をあてて、其穴から焼いてもらうというのは(岡山文化資料一巻四号)、是もやはり小さな粟粒のようなものを見つけて居たのかと思われる。 (注37)
この文中にある、「眼星と粟粒のようなものとの関係」は、内臓体壁反射の丘疹点であるかもしれない。又「引けば白い絲がついてくる」の白い絲は皮下結合織であろう。 メガサ・メボシという呼称は混乱している。この治療のことを飯田下伊那地方ではメガサというが、長野県内で麦粒腫(モノモライ)のことをメガサという地方もあり、 この療法をメボシというところ〔静岡〕もあるが、麦粒腫をメホシ〔和歌山〕メボシ〔青森〕というところもある。
江戸時代の「眼目明鑑」に
目瘡(メカサ)白眼ト烏晴トノ界ニ白色ト薄紅ナルモノアリ疼痛スルコト限リナシ。星目(ホシメ)本ト白眼ヨリ紫色ノ筋イデデ黒眼ニ入ルモノナリ。 人皆ナ星ノ根本ヲ知ラズシテ目瘡(メカサ)ト見誤マルコト多シ。目瘡ハ白眼トノ間ヨリ出ズルモノナリ。星ハ瞳子ト黒眼トノ間ヨリ出デテ疼痛シ、コレヲ能ク見分クベシ。
とあり、目瘡、星目が現在の眼科疾患の何に当たるか私には判らないが、麦粒腫ではない。 油灸は灯心を油に浸して一端に点火して穴あき銭から出た皮膚につけて焼く方法である。粟粒のような出っぱりに行うとパチンとはじけて焼け、他の所でははじけないという。 これに使う灯心は「おこげ」「ヤマブキ」の芯を用いるといわれているが異う。イグサ科の「イ」(灯心草)のなかごを使う。(注38) 付け木に食用油を注いで熱し、熱い油を釘を踏み抜いた傷口に注ぎ込む方法を油灸という地方〔福島〕もある。 挫刺法は筋キリ〔山口・静岡〕とも呼ばれ、皮下結合織(白い糸状のもの)をぬい針でひき上げカミソリで切断する方法である。 針灸師塩沢幸吉が体系化して挫刺法と名付けた。(注39)薬灸に二法あり、一法は艾(もぐさ)と薬物を混和した薬艾を燃やして灸を行う法であり、もう一法は灸と称するが塗法に属するものであり、薬液を箸先などで穴処に点ずる方法である。 艾(もぐさ)と薬物を混和する方法には硫黄灸があり、硫黄の粉末を艾(もぐさ)に混和して灸法を行うものである。同様に、麝香・竜脳・甘草末を艾(もぐさ)と混和して行う方法がある。 灸とは称するが塗法に属するものには、漆灸・水灸・墨灸・紅灸がある。(25)塗法で述べる。
鍼を用いて体表に接触又は穿刺する療法である。現在は養成施設や大学等で教育を受け免許を取得して行う職業となっている。
一般に鍼治療に用いられる針はこれで、皮下に刺入する為の針である。 毫針の刺法には三法がある。「捻鍼法」は中国から伝来した刺法で、針を撚りながら刺す方法である。 「打鍼法」は安土・桃山時代御園意斉の開発した刺法で、小槌の様なもので針をたたいて刺入する方法である。 「管鍼法」は江戸時代初期に杉山和一が創始した刺法で、管の中に針を入れ管から出た針の尻をたたいて刺入する方法である。現在の日本で行われている刺法の多くがこの方法である。 下伊那郡清内路村では竹製の針管を用いて治療を行っていた人がいたという。
三稜針は一般にはハバリと呼ばれ、瀉血用の針である。8.瀉血の項で述べる。
皮膚内に針を刺入せず皮膚を擦過又は皮膚に接触する方法で、小児の治療に多く用いられるので小児針ともいう。用いる器具は、かき鍼・車鍼・単鍼・うさぎ鍼・振子鍼や円柱状の金属棒等である。 (9)摩擦療法の一法である。小児針法と言う場合は接触針・摩擦針の皮膚針に切石(瀉血)・刺入針(毫針)を加える事もある。 (注40)
この「メガサ」・「メボシ」は挫刺法のことである。(12)油灸の項で述べた。
燔針は火針・烙鉄・焼き針〔鹿児島〕・ヤキジン〔熊本〕とも言い、針を火で熱して刺す方法である。 内経では燔針のことを刺(さいし)と呼んでいる。 弓術に於いては古来より矢の先端を火で熱して、患部の周囲を刺激する方法があったといわれる。 安土桃山時代・鎌倉時代に腫物に火針を行ったとある。また、江戸時代創傷の治方として烙法といい外傷の止血に用いたという。安土桃山時代から江戸時代の眼科の治療法に「熱金」・「温金」がある。 アツガネは烙鐵の事であり、ヌルカネは烙鐵の極めて軽度のものである。 小谷村では焼きじんといい、歯が痛む時細い針金の先を火で赤く焼き、それを痛む歯に当てるという。(注41) 鹿児島県甑島では焼き針のうち、化膿した腫れものを穿して排膿する方法をフカバリ(深針)といい、頭痛・歯痛・肩凝り・腰痛・神経痛・発熱して悪寒が出た時に、 焼いた針を皮膚に触れて瞬時に刺す方法をアサバリ(浅針)という。 平田式熱針療法といって、ハンダゴテの小さい様なもので火傷しない程度の温度で皮膚上をたたく療法もある。(注42)
針を刺しておき針柄上でもぐさを燃やし、灸法と針法を同時に行う方法である。昭和初期、笹川智與が創始した。(注43)
種々の方法で血を出す療法で、三稜針(ハバリ)やカミソリ等で切皮して血をしぼったり、スイフクベ(吸角)をかけ出血させる方法(湿角法)や水蛭をつける方法(蛭飼)がある。 蛭飼は10.動物外治法の項で述べる。
西洋医学史上では刺絡の歴史は古く、古代エジプトでは紀元前二千年以前のものと推定されるカーフンハピルスに刺絡の記載があり、ギリシャ時代のヒポクラテス全集に刺絡に関する記事を散見する。 それ以降、ローマ時代中世紀より19世紀初頭までの全時代を通じて常に本療法は西欧医療の中核的位置を占めていた。 それゆえ19世紀以前の西洋医学史の内容の大半は刺絡療法の変遷に費やされていたと言える。
中国では、史記・扁鵲倉公列伝に刺絡を用いて神効をあげた記事があり、内経素問霊枢には重要な治療法として刺絡の記載がある。
日本では、日本書紀の允恭天皇紀中に見られ、日本最古の医書「医心方」に内経流の刺絡の記述がある。平安時代には盛んに行われていたが漸次衰微した。刺絡の再燃は南蛮医術の渡来によるものである。 そして江戸時代に隆盛するも、明治政府のドイツ医学採用により医学の主流から姿を消した。(注44・注45)
瀉血に関する採取は多い。ハバリは肩こりに多く用いられる。又捻挫して腫れた部分へ血管をさけてハバリをくすげて血を取る。(注46) 子供のあつけあたりの時、足の親指の爪のところを固くしばって刃針を打つと黒い血が出る。(注47) 肩こり・できものにハバリで傷つけ血や毒を吸い出させる。(注48)マムシにかまれたところにハバリをした(注49)等県内でも多い。 沖縄では乳幼児期に行う瀉血のことを「サクイン」成人期以後に行うそれを「ブウク」という。(注50)
この場合の薬物というのは草根木皮に限らない。一例として切り傷の治療法を取り上げる。 ○よもぎ、がへろっぱ、蕗の葉等付近にある草の葉をもんでつける。 ○地しばりを貼る。 ○何の葉でも七種もんでつける。 ○むかでを油で溶かした液をつける。 ○袂くそをつける。 ○耳つぶしをつける。 ○おとぎり草又は豆の葉をもんでつける。 ○田の泥をつける。 ○竹の中の薄皮をつける。 ○紙を焼いてつける。 ○砥くそをつける。 ○カマキリを黒焼きにして練ったものをつける。 ○タバコのキセルのヤニをつける。 ○マムシ焼酎(ヘビ酒)をつける。 この様に変化に富んでいて、採取の量も豊富な分野である。
薬物外用の特殊な方法として発泡療法がある。この療法は仙人草・アロエ・青木等を皮膚に貼り水泡を作って、それによって治療効果があるとされる療法である。 (注51) 天明の初年杉田玄白が和蘭の書をみて行ってから、当時の江戸の蘭方社中に於いてホンタネル(Fontanell)と原名で呼ばれていた。 大槻玄澤の醫新書に莞青発泡療法として取り上げられた。 紀州藩医式部子藝が文化十四年に発泡打膿考を著している。 ヨーロッパでは、カンタリデン療法がある。一九五三年にシャルフビリッヒは「赤い瀉血」と「白い瀉血」という二冊の本を著した。 赤い瀉血というのは刺絡の事である。白い瀉血というのはカンタリデン療法をさし、カンタリデン軟膏を塗布して水泡を作らせる療法である。(注52) 扁桃腺炎の時、仙人草の薬を手首より指二本ぐらい下のくぼみに貼ると、水泡ができるころ治っているという。(注33) 扁桃腺の腫れた時センニン草の葉を揉みその汁を手首の静脈に貼りつけるという。〔木曽楢川〕 新潟の新発田市にある医五山清沢寺では、境内所産の薬草をすりつぶして手首のツボ(腰から上の病気)足首のツボ(腰から下の病気)につけ放置し、 この部に水泡ができる頃をまち水泡を破って内容液を排出させる療法を行っていたという。(注53)
種々のものを粉末状にして喉に吹き込む療法である。 風邪でのどが赤く腫れるとヘビの皮を黒焼きにしてのどへ吹きつけると良く効く。皮はヘビが脱皮した時の自然のままが良く、石垣などに皮があると家に持って帰る。 黒焼きにした皮は粉々にして筒の中へつめ他の人に吹きつけてもらう。こんなに効くものはないという。(注7) 扁桃炎にイナゴ・ナスの黒焼きにしたものをふきつける。又、セミのヌケガラを粉々にして咽に吹きつける等の方法もある。(注54)
眼、耳、鼻に草の汁等をさす療法である。 ――突き目の滴法(注55)―― ○エビヅルの汁・エブの茎の水・雀のサカエボ(木の枝についているイラムシの巣、雀の卵に似ている)の水をさす。 ○螢の糞を水に溶かしたものをつける。 ――みみんだれの滴法―― ○ユキノシタの葉をもんでさす。 ○胡瓜を少し乾かし中実がどろどろになったのをこしてさす。 ○茄子漬をしぼり込む。 ○油をさす。 ○大根おろしの水をさす。 ○味噌汁を入れる。 ○蟹をつぶしてその汁をさす。 ○地しばりをもんでその汁をさす。 ○門徒宗のお燈明の油をさす。
広範囲に薬液を塗布する方法と穴処に箸・筆等を使って薬液を点ずる方法がある。後者は灸の名称を冠されている。 広範囲に塗布する方法に紅療法といいベニバナから作った液を塗布する療法(注56・注57・注58)や乾浴療法といい椰子油ランカを塗擦する療法等がある。 穴処に点ずる方法として、漆灸・水灸・墨灸・渋灸などがある。 例えば漆灸は、生漆10 滴、ヒマシ油適宜・樟脳油10 滴を混和し、又は黄柏の煎汁に乾漆40g・明バン40g・樟脳20gの比で混ぜ、経穴部に塗布する方法であり、 水灸は竜脳1・アルコール適宜・薄荷脳2の割合で混和、又は白礬1・樟脳2・磠砂精1の割合で混和、皮膚上点ずる方法である。(注29)
動物の毒や蛭の吸血等の様に、その動物の特質を利用して行う療法である。動物外治法という用語は中国で使われている言葉である。日本では動物を用いる療法の総称がなかったので引用した。 (注27)
蛭飼は蛭宿・蛭喰と書き共にヒルカイと読む。水蛭を肩の凝ったところや化膿した場所、痛む場所につけて血を吸わせる方法である。水蛭を用いて瀉血する方法は「醫心方」に出ている。
又、丹波雅忠の「醫略抄」にもその方法が収められている事から、平安時代には行われていたと思われる。
江戸時代初期の「外科精要」に「鍼」としてその方法が出ている。
中期にはあまり行われなくなったが、西洋医学の伝来により再興した。荻野元凱の「刺絡編」に書かれている。
飯田市では薬局で水蛭を大きな壷にいれて売っていた。これは小川や、田んぼにいたものより大きく別の種類だった様だ。ネブツ・痔・肩こりの治療に用いたという。
「父への手紙」(注59)に蛭飼の事が書かれている個所がある。
……悪血を吸いとるために医療用蛭をつかったのだそうだ。戦争中の町医者は、メンタムやペニシリン軟膏のききめがなくなると、シモヤケの患部を血スイ蛭に吸わせる荒治療をやった。 無数の蛭をはなした洗面器の水に、ふくれあがった手足の患部をひたすと、うす紫色の小さな沃虫たちがそこにむらがり、われさきに血を吸った。……
蜂に刺させてその蜂毒により治療する方法である。昔からこの療法は行われていたのであろうが、調べた限りでは日本での歴史的な記録はない。 ヨーロッパではLukowski によって創始せられたといわれ、一九七九年には多数の臨床家によって「蜂毒に依るロイマティスの治療」という論文が発表された。 それ以後少数ではあるが研究が続けられていたようだ。(注60)
民間医術についての研究は少なく、外治法に関するものは尚少ない。そこで外治法の種類を挙げ若干の解説を試みた。外治法の採取の為の資料になれば幸いである。
注(文献)
1「物理療法の実際」南山堂 高橋晄正著
2「民間療法と民間薬」人文書院 野村瑞城著
3「万有百科大事典」小学館
4「日本風俗史事典」弘文堂 日本風俗史学会
5「信州の伝説」第一法規 浅川欽一編
6「伊那一九七二年十一月」伊那史学会
7「信州七不思議」郷土出版社 降旗利治著
8「失われた山村の生活」飯田市教育委員会
9「中部の民間療法」明玄書房
10「日本民俗事典」弘文堂
11 東京堂出版 民俗学研究会編
12 柏書房 西垣晴次編
13「快速針刺療法」續文堂 三井駿一訳編
14「針灸学」 人民衛生出版社 上海中医学院編
15「アラビアの医学」中公新書 前嶋信次郎著
16「ヨーロッパにおけるカッピング療法」健康医学社
ウィリアム・ブロックバンク著
17「吸角療法」目黒章布著
18「真空浄血療法」健康医学社 黒岩東吾著
19「図説東洋医学」学研 山田光胤等著
20「法規・例規集」医道の日本社 佐伯徹監修
21「推掌療法」医道の日本社 間中喜雄訳
22「オステオパシーの世界」科学新聞社 藤井尚治著
23「カイロプラクチックの理論・応用・実技」科学新聞社 ジョセフ・ジュンシー著
24「ひとりで操体法」農山漁村文化協会 小崎順子著
25「力学健康法」実業の日本社 磯谷公良著
26「人間医学便覧」エンタプライズ 杉靖三郎他監修
27「中国簡易外治法」人民衛生出版社 曲祖貽編
28「第34 回全日本鍼灸学会予稿集」
29「最新鍼灸医学」医歯薬出版 国分荘著
30「鍼灸の科学 理論編」医歯薬出版 芹沢勝助著
31「鍼灸の科学 実技編」医歯薬出版 柳谷素霊著
32「東洋医学 昭和56 年 Vol.9 No.1」自然社
33「年中行事図説」日本民俗学研究所
34「おはなし長野県の民俗 下」長野県教育民俗研究会
35「鍼灸医療の実際(下)」創元社 代田文誌著
36「国民医学大事典」保健同人社
37「旅と伝説 昭和十年六月号」三元社
38「博物館ノートNo.2」日本のあかり博物館
39「図解挫刺針法」謙光社 角田章著
40「小児針法」医道の日本社 米山博久著
41「小谷の民俗」小谷村教育委員会
42「治病強健術熱針療法」エンタプライズ 平田内蔵吉著
43「灸頭針法」医道の日本社 赤羽幸兵衛著
44「刺絡療法」績文堂 丸山昌郎著
45「思い違いの科学史」朝日新聞社 立川昭二著
46「大平の民俗−集団移住した飯田市大平郡落−」 長野県飯田市教育委員会
47「木曾楢川村の民俗(二)」楢川村教育委員会
48「南信州・上村連山の民俗」上村民俗誌刊行会
49「遠山谷の民俗」
50「民俗衛生 巻35・第1 号」日本民俗衛生学会
51「発泡法の研究」萩原式健康法普及会 萩原植吉著
52「東洋医学 Vol.11 No.1」自然社
53「北蒲原郡医事衛生史」北蒲原郡医師会
54「信州の民間薬」医療タイムス社
55「旅と伝説 第6 年11 月号」三元社
56「紅療法講義録」山内啓二著
57「紅療法学講義」小脇繁一著
58「東洋医学通史−漢方・針灸・導引医学の史的考察−」
59 筑摩書房 窪島誠一郎著
60「産業養蜂 第9巻1月号〜10 月号」産業養蜂社