国語とことば

 民俗学の創始者柳田国男の言語観は「符号的な言語観でもなければ、組み合わせ式の言語観でもないのである。まっとうに精神的交通のための表現のための言語観である。 表現の一種なのだという内意がしかと把握されてあるとみていい言語観である。 (中略)言葉なるものを精神的交通の存在物としてはっきりと見据えている(『柳田国男と教育−民間教育学序説−』庄司和晃著)といわれます。 だから柳田は話し方の問題を重要視し、字の読み書き中心の国語教育を批判しました。

 竹内敏晴先生のワークショップに「話しかけのレッスン」というのがあります。四、五人が後ろ向きで座ります。すこし離れた所からその中の一人に向かって話しかけます。 しかし「ことば」は空中に拡散したり、手前にストンと落ちてしまったりしてその人達に届きません。実際にそこに座ってみると、そのことが実感されます。ことばはまさに「精神的交通の存在物」なのです。 現在、ことばを仕事にしている教師なども例外ではないそうです。

 先生は著書で柳田国男の「国語の将来」の序文を引用しておっしゃいます。 『私はゆくゆくこの日本語をもって、言いたいことは何でも言い、書きたいことは何でも書け、しかもわが心がはっきりとし、少しの曇りもなくかつ感動深く、相手にしらしめうるようにすることが、本当の(国語)愛護だと思っている』−ことばで言えばただこれだけのことです。 私が本書(「話すとゆうこと 朗読原論への試み」国土社)で考えてきたかったことは、おこがましいけれども、ほとんどこれにつきているわけです。 ただ『日本語をもって』と柳田さんが言っているそのことについて、日本人として自分のからだ全体で働きかけることが不可欠である、ということを、いくらか余分に述べてきたにすぎない。」 と、そして〔昔の国語教育〕の章にふれ、「柳田さんの思考の範囲の中に、単に読み書き、あるいは、さらにというか、話しことばそのものだけに限定してものを考えるのではなくて、子どもの生活全体、からだの働き全体の中で、ことばの発達、あるいは、言葉の教育ということが考えられてきた、ということが、これでもわかると思うのです。」 と書かれています。柳田と竹内先生の時代の国語教育にほとんど変化が無かったといえるでしょう。

体育とからだ

 また先生のワークショップに「からだほぐし」をしながら声を出させるレッスンがあります。女性で声が大きく出せない人がレッスンでからだがほぐれると突然大きな声が出るようになります。 女らしい声という社会の基準に合わせた声を出そうとしているうちにからだを締め、喉を締めて声が出せなくなっていたのです。こころ、からだ、ことばは一体なのです。

 つい先頃、教育課程審議会が審議のまとめを公表しました。体育、保健体育で「体ほぐし(仮称)」が新たに示され、心と体を一体としてとらえ、体の調子を整えるのだといいます。 体育も含めて教育に基本には頑張ることが美徳という信念があるように思われます。心身ともに頑張るようしむけられ、ゆったりする事は罪悪のように思いこまされています。 それが現在の子どもたちの心身の病の原因にもなっているのではないでしょうか。心身はいつも素早く反応するように緊張し続け、それがこわばりとなって心身を蝕んでいます。からだほぐしをおこなうと、 心身が一体であることが実感でき、ゆったりすることの心地よさを知ることができます。私たちは常にからだをあたま(頭脳)の下僕にしています。たまには「からだほぐし」をして、からだの訴えに耳を傾けて、 からだを感ずることが癒しの第一歩といえるでしょう。