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『はるかなる東洋医学へ』
本多勝一・出版記念講演会によせて
1997年 7月13日 南信州新聞 掲載2006年 4月 1日 掲載
7月13日日曜日の午後3時から、飯田市美術博物館講堂で講演会(本多勝一氏「長寿地帯としての伊那谷」、境信一氏「東洋医学から見た食養生」) が開催されるにあたり、飯田柳田國男研究会で民俗学を学び、 飯伊針灸師会の一員として東洋医学の分野に携わるものとして、病をどのように捉えるのかを述べてみたい。
本多氏は『はるかなる東洋医学へ』のあとがきに「東洋の知恵が、明治以後あまりにも不当に虐待され、西洋からの近代医学が崇拝されすぎて、一般の意識はもちろん制度や利権も含めた害悪が異様に肥大した現代日本にあっては、そのブレを多少なりともゆりもどすきっかけのひとつにともなれば幸いです。 (略)本書は西洋医学を否定するものでは全然ありません。あくまで東洋医学の復権を願うのであって、そのとき西洋医学の限界にもふれざるをえないというだけのことです。」と書かれている。
西洋医学の隆盛は近代化の一環としての国のための「制度的医療」の導入によるものだという。 医療の自律性が国家によって保証され、免許によって専門家認定され、医療法などによって業務独占が制度として確立されている。 この制度的枠組みに、正統的医学として組み込まれている医学を「制度的医学」という。 ほとんどの近代社会においては、制度的医学は近代医学、すなわち西洋医学である。 制度的医学は自己の独占を維持するため偽医者・素人療法・民間療法・伝統医療の無効性と危険性を組織的に宣伝し排除する構造を持つ。 また、非西欧社会・第三世界に導入された近代医学は単に医学的知識として紹介されたのではなく、トータルな近代化の一環として権力者の制度的医学として導入されたのである。 西洋医学を全国均一の医療イデオロギーに仕立て上げるため、いわば迷信を捏造して民衆が長い年月をかけて培ってきた多元的医療システムを有害なものとして駆逐した。国家的な医療は迷信とともに進歩した。
最近、東洋医学が再評価されている。現代医学は特定病因説で治療の論理は魔弾主義(病気の個々の原因をたたく方法)である。その論理は感染症などでは有効に作用したと思われてきた。 しかし、生活習慣病(成人病)などには機能しにくい。それに対し東洋医学はアンバランスからの回復、自然治癒力の増強という論理でせまる。 また疾病を診て病人を診ないといわれる医療の現状に対して、病苦の除去を標的にしていることも再評価の理由だろう。 『はるかなる東洋医学へ』で本多氏と対談している堺氏は、第六章の「死に到る病と生に向かう病」で「『身体に感ずる』能力を失った人間が病を『生に向かう未病の道』とするには病を『転換をうながす“きっかけ”』にして、それを生かし定着させ、保持する必要がある。 これが養生だ。それは『生き方の問題』とならざるをえない」と述べられている。これは重要な指摘だろう。
病気は医療が克服してきたと一般に思われている。しかし歴史的に見て感染症の減少、疾病パターンの変化に医学が果たした役割はさほどなく、個人の緊急時は医学的な介入が極めて有効だが、社会全体に対する医学はほとんど無効であるという。 例えば結核などの感染症が減ったのは化学療法開発以前である。感染症の減少は栄養状態の改善、衛生概念の改善、生活条件の改善によるものだ。 人間の健康は医学の介入によってではなく、人間の行動・食物・環境の性質によって大きく左右されるものなのだ。 それぞれの文化には独自の病気があり、食物・行動・様式・環境条件が変わるにつれて疾病パターンもまた変化する。
また現代医療は科学的ではないという。疾病を正常な生物学的な状態からの逸脱として定義しているが、正常という概念がそもそもあいまいな概念だ。 特定病因論の想定にたっているが、その概念の有効性は例外的に認められはするがそれとて保証の限りではない。 疾病の普遍性、あるいは疾病の分類学が可能であるとする想定は、医療人類学と真っ向から反するものであるし、時代によって同じ疾患の病像が著しく異なることも医学史の常識だ。 医学が科学的に客観的中立であるとの想定も、実験室や試験管を使っての研究ならいざしらず、臨床の現場でどれほど客観性が保証できるか疑問だ、という訳だ。
医療そのものが病をつくるのを医原病という。臨床的医原病はスモンなどのようにまさしく医師なり薬がつくった病気。 社会的医原病は病気になったら医者にかかれ、そのための料金は社会的に支出する、というようにあらゆる問題がすべて医学の問題に置き換えられること。 文化的医原病は文化自体がつくり出した病気で、苦痛、死は今までの人類社会において大きな働きをしてきて、人生の見直し、文化の再生の一つの原動力だったのに、これらすべてが医療の世界に入ってしまうことによって、苦痛は存在すること自体が間違いであるという社会にしてしまったことだという。 苦痛を忘れた社会は人間性を失い主体性を失った社会だという。東洋医学的治療、民間療法、健康法などもその恐れがある。よくよく心せねばあるまい。
健康至上主義(ヘルシズム)は危険だ。それは美しい身体と若さを崇めたてまつるナルシズム文化で老化、障害を排除する危険性を持つ。 障害は克服すべきもの、苦しくとも障害者はリハビリに励むべきとの一面的な障害者観を見直すべきだ。高齢化社会が進み慢性疾患が主流の疾病構造の今日、何らかの障害のある人はいや応なく増える。 前向きに受け入れる発想が必要だろう。病も同じことがいえる。
柳田國男は『明治大正史・世相篇』の「貧と病」の章で「社会病」という認識を示している。また、「食物と心臓」の「モノモライの話」では病に共同して対処することを気づかせてくれる。 病を個と共同の抱える問題の転換をうながすきっかけにしなければならないだろう。
民俗学では民間医療の研究対象として、祈願、信仰、呪術、薬物、物理的手段などあげているが現代医療は除外されている。しかし、現在では現代医療をも「医療民俗」に含めて考察した方が良いだろう。 また、医療だけでなく、福祉の分野をも視野に入れた「癒しの民俗」として、共同体の癒しの機能なども考慮に入れた検討をして、現代の医療、福祉に提言しなければならないだろう。
参考文献 佐藤純一「近代医学の多様性」(メディカルヒューマニティー14) 川村邦光「幻視する近代空間」 村上陽一郎「病のおしえるもの」(朝日新聞S58・9・5) フリッチョフ・カプラ「現代思想1998年1月」 中川米造「メディカルヒューマニティー14」 イバン・イリイチ「脱病院化社会」 山口昌男「病の宇宙誌」 ロバート・F・マーフィー「ボディ・サイレント」小池将文「論壇」(朝日新聞H8・6・6)